旅の思い出 1997サイゴン

サイゴンの休日 1997年12月5日(金)~9日(火)

 もう20年近く前になりますが、当時古希を過ぎた今は亡き母とホチミン市(旧サイゴン)にツアーで行ってきました。参加者はぼくたちの2名だけでした。来月ベトナム旅行を計画しているので、改めて当時のことを振り返ってみたいと思った次第です。

 ホームページに載せた記事をコピペして一部編集してみましたので、ご笑覧ください。

(1)入国編 12月5日(金)

関西空港 14:40発ホーチミン行き VN-947便は、日本航空の機体(DC-10)でJALの乗務員とピンクのアオザイの乗務員1名を乗せて、ほぼ定刻どおり離陸した。飛行予定時間5時間5分とのこと。
 機内食の後、必要書類を渡され、書類作成。必死に記入していて、ふと前をみると、ピンクのアオザイが去って行くところだった。

サイゴン付近で飛行機は旋回した。左側の席だったが、窓から夕焼けが見えた。海の上には小さな積雲や積乱雲が。熱帯の空だ。窓から眼をこらして見ていると、薄暗い空の下に幾筋もの川が見えた。蛇行する川もある。メコンデルタだ!

空からのホーチミンの夜は暗かった。道路に沿って街灯や車の灯火が見えるだけのようだ。暗闇のなかに赤く揺れる光があったので、双眼鏡で見ると、それは一塊の火だった。よく見ると、数ケ所にそれがあった。「焼畑農業」を連想したが、それにしては規模は小さい。収穫後の田の稲わら焼きにも似ているが、それにしては火が大きい。あとで、現地ガイドに聞いたら火葬だろうとのことだったが、どうなのだろう。
日本との時差は2時間。現地時間18時頃に着陸。遠くに雷光が見えた。バスでイミグレへ。温度計付きコンパスの示す気温は約30℃だった。

イミグレを出たすぐ近くにDFSがあった。日本人グループを出迎えにきた人がイミグレのすぐ近くまで来ていたが、携帯用蚊取り線香を腰にぶらさげているのには笑ってしまった。それにしても、すぐそこまで出迎えにこれるとは、この空港のシステムはどうなっているのだろおうと思った。

税関のX線検査を通ると、すぐに出口。タクシーの運転手やツアー会社の現地ガイド、出迎えの人々が待っていた。タクシー運転手から声をかけられたが、ツアーのバッチを見せるとおとなしく引き下がった。現地ガイドがぼくたちを確認して声をかけてきた。ツアー客はぼくたち2名だけのようで、少しポンコツのベンツでホテルまで送られた。
 空港からの道路は、自転車やバイクの群れが走っていた。ホテル近くではその数が増えていた。クリスマスツリーを持ってバイクに乗る男、夫婦に子ども二人で乗るもの。アオザイの前の部分をハンドルに固定して乗っている女性。いろいろな人が、いろいろな格好で乗っていた。ガイド本で読んで知ってはいたが、見ているだけで楽しかった。

ホテルのエレベーターに2人のJALのCAが乗り合わせた。「今日、家でコロンビア見えたの~」と話していた。どういう意味か理解できなかったが、部屋でNHKのニュースを見ると、ちょうどスペースシャトルコロンビア号が着陸する中継をしていた。ホテルのテレビはローカル放送のほか、 MTV、イギリスやアメリカ、日本のTVが見られた。
ホーチミン市のTV番組を見た。小さなスタジオで「のど自慢」のような番組をしていた。歌い終わった人に観客が花束を渡してたりしていた。間に、歌唱指導がはいって、「2(ハイ)、3(バー)、4(ボン)」と言って音頭をとっていた。数字くらいは覚えなければと思っていたので、ちょうどよかった。

(2)市内観光~クチトンネル 12月6日(土)

朝食後、ホテルで5000円をベトナムの通貨ドンに替えた(1円=約89ドンのはず)。ホテルの前の道路で、カメラでバイクの群れを撮っていると、箱を抱えた若い女性が近寄ってきた。箱の中には古本があった。ベトナム語の本ばかりだ。古本売りのようだ。何でもいいから買ってくれという感じで、適当に本を開いて見せられた。写真入りの雑誌が2冊あった。中を見ると、女性向けのファッション雑誌のようだった。買おうと思って価格交渉をはじめた。去年の2月の雑誌だったので、3000ドン出したら、価格を表示してあるところを示された。7500ドン。
 ガイド本の「ベトナム語コミュニケーションシート」のコピーを出して、古雑誌を示して、シートの「去年」を示し、「高い」を示した。彼女は理解出来ないのか、近くにいたバイクの男に助けを求めた。ぼくは、再度「古いのに定価で売るのはおかしい」と伝えようとした。しかし、彼も本の定価の部分を示して、なんで定価で買わないのかという雰囲気だった。1996年というところを示すと、別の雑誌を示して(それは1997年のだった)こっちのほうは新しいよ、みたいなことを言っているのだった。それ以上粘るのもばからしくなって、その本を買った。100円もしないのだったけれど。

昨夜のガイドが迎えに来て、9時にホテルを出発し、最初に永厳寺という南ベトナム最大の寺に行った。鐘楼の「平和の鐘」は日本の寺から寄贈されたものとのこと。ベトナム式の焼香の仕方を教えてもらった。やや太くて長い線香に火を付けて線香を振って火を消し、自分の額に線香を持った両手をあてて祈るのだ。他に参詣する人は少なかったが、数十本の線香に火を付け、かなり長い時間祈っている女性がいた。
最近亡くなった人の遺影が飾ってあった。写真を貼り付けた位牌が壁一面に飾ってあった。

寺の境内に子連れの物乞いがいた。ぼくたちを見つけると近寄ってきて手をさしだした。寺に入る前にガイドから、「寺には良くない人たちがいるので話をしたり、関わってはいけません」と言われていたので、避けるように車に乗り込んだ。乗り込んでもまだ追ってきた。抱かれた子どもの眼をちらりと見てしまった。ローマでジプシーの連れていた子どもと同じ悲哀の色がそこに見えた。

戦争犯罪展示館では、野ざらしの戦車や戦闘機、大砲などを見た。館内には武器や枯れ葉剤の被害、解放後の経済を混乱させたという偽札などが展示されていた。ホルマリン漬けの奇形胎児は、何か別の動物のように思えてしまいそれほどショックは受けなかった。

 旧大統領官邸、今は名前を変え一般公開されている統一会堂へ行った。受け付けには色とりどりのアオザイ姿の係員がいた。ときどきすれ違った観光客にはアオザイのガイドがついていた。地下室の作戦司令部のようなところも案内された。

華僑の多いチョロン地区はくるまから降りないで見るだけの観光となった。あまりの人の多さに、降りてみようという気持ちにもならなかった。昼はダウンタウンのどこかの海鮮レストランでベトナム海鮮料理。揚げ春巻と蟹のテンプラが美味しかった。

昼食後、クチの地下トンネルへ。
75キロ、約1時間20分のドライブだった。郊外になるにつれ、バイクは次第に減り、車もあまり通らないようになった。水田が広がり、道路わきには水牛がいたりした。刈り入れ寸前の稲があるかと思うと、数十人で田植えをしている光景が見られ、米を年に2~3回作られるというのもなるほどと思った。
クチトンネル付近は細くて若い木が多かった。枯れ葉剤の被害にあい22年でここまで回復したのだと教えられた。案内人が数人、木と木の間にハンモックを吊って昼寝していた。
トンネルに入る前にビデオを見せられた。別の小屋ではアメリカ人らしい観光客が英語のビデオを見せられていた。彼らはどんな心境で見ているのだろう。ビデオでは旧サイゴン政権を「アメリカ傀儡政権」と言っているのに「ベトコン」という言葉も使っていて、何か妙な気がした。ベトコンとベトナム民族解放戦線を同義語として使っているようなのだ。結果的には違わなかったということか?
トンネル内の部屋は観光用に屋根をやしの葉で覆ってあり、むし暑くならないようになっていた。部屋から部屋への移動は、細いトンネルを腰をかがめて歩いた。母は最後はギブアップして1ケ所はパスした。ぼくも、全部回ったあとに足の筋肉が痙攣しそうになって、あせった。

 その後ホテルに午後4時頃戻った。シエスタの後、夕食はベトナム民族楽器を演奏する高級ベトナム料理店へ。ガイドブックにも書かれている店で、日本からのツアー客が他に2組ほどいた。生きているエビを目の前で蒸しエビにしてくれたのには驚いた。「北国の春」の演奏があった。ガイドブックに「ベトナムに来てまで聞きたくない」とあったが、それほど違和感はなかったと思う。

ホテルで見たNHKの「アジア発見」はベトナムのドンタップ省の「村はサッカーフィーバー」だった。 そういえばローカルTVでフットサルの国際大会の中継をしていた。ベトナムでもサッカーは人気のあるスポーツのようだ。
(3)メコン河(ミトー)へ 12月7日(日)

3日目、6時前に目が覚めた。ローカルTVは6時から放映していた。はじめは太極拳、その後ニュース。
7時にホテルの朝食。日曜日だからなのか、客はほかに誰もいなかった。
9時前にホテルを出発した。メコン・デルタ入り口のミトーまで75キロだけど、道路が良くないところもあるので1時間45分くらいかかるとのこと。市内でリボンで飾った車を見た。結婚式の車とのことだった。ベトナムの結婚式は3日かけて盛大にやるという。

チョロンのひとごみとバイクの群れを過ぎ、郊外に出た。2車線になってバイクの煩わしさから開放されるかと思ったが、まだバイクが車の横を走っていた。道路わきにはフランスパンや帽子を売る人がいた。
一部、でこぼこ道もあったが、予想よりはひどくない。ただ、2車線になって、運転手が「追い越し」が自分の今日の仕事だとでもいうように、次々に車を追い越していくのには、まいってしまった。ほぼ一直線なので、前方に対向車がないと、複数の車が追い越しをはじめることもあった。追い越しをかけようとして、センターラインからはみ出しているからだろう、しばしば対向車がクラクションを鳴らしてすれ違った。ドップラー効果を身をもって確認してしまった。

1時間50分でミトーに着いた。果樹園のある島まで20人乗りくらいの船で行った。ヤシの実のサービスがあった。生ぬるかったけれど美味しかった。島では昔は果物が主食だったとのことだが、今は電気も通り人口も増えているとのことだった。TVのアンテナも見えた。フランス人観光客のグループがアオザイのガイドに引率されていた。そのガイドはぼくたちのガイドとも知り合いのようで声をかけていた。
小休止して果物を食べたあと、クリークを小舟で下った。生き物らしいものは蟹しか出てこなかったが、
 東京ディズニーランドのジャングルクルーズを思い出してしまった。ニッパヤシの茂る水路を静かに下っていった。子どもがオシッコしていたりして、笑ってしまった。
再びメコン河に出て、前のボートに乗ってミトーまで戻った。

昼食は、海鮮鍋と皿に揚げた魚を起たせたものが出た。ウェイトレスが魚の身をほぐして、野菜などと一緒にライスペーパーでくるんでくれた。あとで分かったことだが、その魚は「象の耳」という名前だった。もち米だと思うが、丸くて中が中空のボール状のものが出た。はさみで切ってくれた。

昼食後、またカーレースもどきのドライブ。時間があればおみやげ店にと言われたが、パスした。3時前にはホテルに着いた。シャワーをあびて、一休みした。
夕方、ホテルのシャトルバス(ワゴン車)でダウンタウンへ。ダウンタウンとは、ワゴン車の運転手が言っていたこと。

 ダウンタウンの、家賃が高くてテナントが少ないというビルに着いたと同時にスコールに遭遇。バイクに乗っている人たちは雨宿り。中には果敢にもポンチョをかぶってバイクに乗る人もいたが、ほとんどの人は雨宿りしていた。青空も見えているのに強い雨。傘をさす人はあまりいなかった。日本人らしい女性二人連れがハンドバックさげて傘をさして歩いて行った。約20分で雨はあがった。

国営デパートで買い物。刺繍のはいったテーブルクロスとかベトナムシルクのアオババ(パジャマみたいな上下)などを買った。冷房なしなので汗がとめどなく流れてひどかった。店員の対応は北京のそれよりかなり良かった。
おだてられてぼくはシルクの薄い「きもの」を買ってしまった。17ドル。シャトルバスでホテルへ。今日は夕食が含まれない日。母は昼の食事でもう沢山で夕食はパスするとのことだったので、一人で夜の街へいくことにした。

夜、ホテルの近くを歩いた。ダウンタウンからは4キロくらい離れている。いつかNHKで放映していたが、バイクの洗車サービスをやっているところがあった。シャンプーを使ってきれいにバイクを洗っていた。
後ろから来たバイクのにいちゃんに「乗らない?」と日本語で声をかけられた。カメラ持っていないのに、どうして分かったのか不思議だったが、たぶん眼鏡をかけているからだろうと、翌日市場であった女の子に言われて分かった。
古本屋があったので、はいってみた。紙質の悪い薄いマンガ本があった。鉄腕アトムや、よく分からないけれど昔見たことがあるような古いマンガ本があった。店の壁には、かわいいやもりが這い回っていた。ぼくが子どものころ見たやもりより白っぽくてかわいらしいと思った。

露店でフォー(米のうどん)のようなものを売っていたので、覗いていると肉だんごみたいなものと、ゼラチン質の肉みたいなものを一緒に食べるんだよみたいに身振りですすめてくれた。肉だんごと麺だけでいいからみたいな手振りで注文したが、ゼラチンみたいなのも一緒にどんぶりに入れてくれた。別の皿に香草を山盛りにして出してきた。6000ドン。もっと安いように聞いていたけど、まあいいかということで、すだちをしぼって、食べた。香草みたいなのは(2種類くらいあった)そこらへんの草みたいな感じもして、とても全部はたべれない。全部食べないといけないのだろうかと、悩んだ。気にしないで半分以上残して、麺は全部食べた。

ホテルに帰る途中の店でタイガー・ビールとミネラルウォーターを買った。ミネラルウォーターはノンガスかどうか、しつこく聞いたけれど、意味が通じなかった。ホテルの冷蔵庫においてあるものと同じようなボトルだったので買った。
粗末なカフェみたいなところで涼みながらTVをみている人たちがいた。TVではフットサルの国際大会の中継をやっていた。
(4)サイゴンのこどもたち 12月8日(月)
4日目は午前中がフリータイム。5日間となってはいるが、3泊5日の日程なので12時までにはチェックアウトしなければならないのだった。
母は、人ごみの中に行くのは疲れると言って、ホテルで休んでいることになり、一人でホテルの無料シャトルバスに乗ってダウンタウンへ向かった。まず市場に向かった。シクロやバイクタクシーに声をかけられたが軽くいなした。
市場へ入った途端に少女が走り寄ってきて「何買いたい?」と言った。ライスペーパーとコーヒーだと言うと、手を掴んで引っ張っていく。ライスペーパーを2種類(丸いのと四角のもの)示して、「これ高いけどおいしくない」と説明された。そういわれれば、おいしくないほうを買うわけがない。買うと、彼女に付いてきた母親らしい人に買ったものを持たせて、「心配ない」と言って、次はコーヒーを売るところに連れていった。お茶とモカ・コーヒーを売る店だった。
少女がコーヒー豆を勝手に出して、「これが1番、これが2番め高いの」と言って見せてくれた。2番めの100グラム12、000ドンの豆にすることにした。200グラムの袋にするのか500グラムの袋に入れるかと、聞かれたので200グラム3つというと、1キロでないと売らないという。ここでもめてもしょうがないと思い、挽かないで5袋にした。商談が成立すると、少女はすこし離れた店にいったりして、コーヒー豆が袋に入れられるのを待っていた。近寄っていって、「日本語上手いね、どこで勉強したの?」と聞くと。「学校で」と答えた。何歳かと聞くと十歳と答えた。名前はヒンチャンといった。名前をノートに書いてもらったら、ヒン(hien eの上に何やら記号が2つついていた)と分かった。自分にチャンを付けているというのは、そう教えてもらったのだろう。
代金をシャツの胸ポケットから出して払ったあと、少女とその母親に、胸ポケットのボタンをきちんと閉めろと身振りで注意された。これで帰ろうとすると、Tシャツいらないかと言って、手をとってTシャツ屋につれていかれた。Tシャツはまだ1枚も買っていなかったので1枚くらいいいかと思いついていった。刺繍のきれいなちょっと厚手のシャツが4ドルと言われた。国営デパートで、釣り銭2ドルのかわりにTシャツ2枚いらないかと言われたのを思い出したが、あれはプリントTシャツだったか。2枚で7ドルだと、ヒンちゃんが言ったが、1枚買った。母親から買った物を受け取り、お礼を言って別れた。チップを要求するかと思ったが、そういう素振りもなかった。どこかからキックバックのようなものがあるのだろうと考えることにした。

 市庁舎前に行った。リボンをかけた自動車が2~3台停まっていた。ホーチミン像の前では新婚カップルのビデオ撮影が行われていた。ココナツ売りの男が氷で冷やしたココナツをぼくに示して、「ワンダラー」と言った。
ホーチミン像の前方の庭には誰もいなかった。植え込みの端で写真を撮っていると、ココナツ売りの少年が来た。1ドルで冷えているココナツを買った。郊外への道路端でココナツ1000ドンという値札を見たこともあったけれど、考えないことにした。あとで、ガイド氏に聞くと、ベトナム人は3000ドンで買っているとのことだった。
絵葉書売りの少女が来て、1ドルと言った。これも6000ドンのものを1ドルで売っているということのようだった。市内の観光はがきを買ったら、アオザイ女性の絵葉書も見せて、こっちもいいよという素振り。アオザイの写真をあまり撮れなかったこともあったので、買うことにした。
その少女の母親が来た。ハンモック売りの男、サンダル売りの男が寄ってきたが断った。絵葉書売りの少女と「ベトナム語コミュニケーションシート」で会話を試みた。ガイド本からコピーしたもので、ベトナム語と日本語が書いてあるものだ。「ありがとう」を示すと、「カムオン」と発音してくれた。「私」とか「日本人」などを指差すと、発音して教えてくれた。
会話をしてみようと、「あなた」「何」「好き」を順にさして少女に聞くと、少女の母親は「フォー」を指差した。顔を見ると「この子はフォーが好きなんですよ」と喋っているような錯覚に陥った。そのうち少女がシートを持って「私」「したい」「行く」「ごはん」を指差した。母親の顔を見ると、「ダメ、聞いてあげなくてもいい」という顔をしていたので無視することにした。
 しばらくしてそこを去ったが、別のココナツ売りの少年が「1ドル」と言って、しつこくついてきた。かわいそうには思ったけれど、シャトルバスの時間も迫っていたので、振り切って横断歩道を渡った。

ホテルを12時にチェックアウト。荷物は夕食が済むまで預かってもらった。
昼食後、観光客向けのおみやげ店まわり。どこの女店員もさまざまな色のアオザイを着ていた。下着の色によっては、それがあざやかに透けて見えて、目のやり場に困ってしまうようなこともあった。
午後3時半にはホテルのロビーへ。どこかに出かけるという気力もないので、ロビーのソファーで夕食の時刻まで待った。夕食は、今回の旅行で唯一の「はずれ」だった。昔はどうだったかは分からないが、フランス人シェフとはいえ、ベトナムの食材でのフランス料理が必ずしも美味いとは思えなかった。

夕食後、空港へ。ガイド氏とはそこでお別れ。彼は、仕事がやっと終わったという雰囲気で、でも疲れたような顔で、帰っていった。

空港使用料は税関を通過したところで支払うことになっていたが、税関の係はまだ配置についていなかった。
団体旅行の添乗員がひとりで税関を通って行ったのを見て、あわてていた係官がいたが、添乗員の目的を察したらしく何もしないでいた。また、空港待合室へはパスポートなどの提示をして出入りすることになっているようなのに、日本人には団体客が多かったからか、チェックしないで出入りを認めていた。こういう具合だから、出迎えにイミグレまで入れるわけかと納得した。

午前0時、DC10は関空に向けて、テイクオフ。
短いサイゴンへの旅は終わった。

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