息子にバトンを渡すべく
弊社ホームページをリニューアルしました。
こちらです→https://plan-new-f.co.jp
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もし 希望の芽の立上げに関わることがなかったら
出会う筈もない人たちとの交流が、今も自分を鍛えてくれているように思います。
希望の芽の復興応援ブースに来て頂いている女性のみなさんから
『宍◯先生』と一目置かれてるハーブ&クラフト代表の◯戸さんに
お声掛け頂いて、急遽お手伝いに伺うことになった福島県相馬郡新地町(しんちまち)。。。
釣師地区に作られた大きな防潮堤(H=10m)の内側に
とても広い広い緑地(釣師防災緑地計画)が整備されていて
その緑地の入り口にハーブガーデンを作ることになり、
そのハーブを植えるためのレンガの花壇を自前で作ることになったのだそうです。
そのメンバーは、
・ハーブの先生 宍戸さん(ハーブのデザインと講習と花壇のレイアウト担当)
・NPO法人東北の造形作家を支援する会 SOAT
・そして新地町役場の職員のみなさん&福島大の学生さん
5月の末には、今回作業されるみなさんと、新地町の住民の方々と
みんな一緒にハーブを植えるのだそうです。
『でも、、、レンガの手配やらレンガを積み上げる作業やら
いったいどうしたら・・・・・・・。』
そんな悩みの中で宍戸先生の頭の中に
『あっ!!!困った時のに~のさんっ!』とおいらの顔が浮かんだそうで・・・・・
ははは~~~!!” 相談のベルがおいらの携帯に届いたのでした。
4/12(金)にレンガ積みの土台となる一段目(完成形は全5段積)の施工と、
翌日はおいら居ないので残された人たちで如何に綺麗に頑丈に、残りの4段のレンガを
積み上げるかの施工方法をお教えに行って来ました。
NPO法人SOAT(ソアト)のメンバーさんは、さすがに東北各地で色んな支援の活動をなさっているので
とってもメンバーさんたちのチームワークが良くて、そして作業の手順を把握される能力が素晴らしく
順調に作業は進みました。
また新地町役場の職員のみなさまも、とっても朗らかで大らかで素敵な方々で
大変な作業(重労働)も賑やかに楽しく進めることが出来ました。
みなさん直ぐに役割分担が出来上がって、こちらも目を見張るチームワークでした。
山形から伺ったおいらと相原くんも、2時間半掛けて新地町に出かけたかいがありました。
今回のプロジェクトで宍戸先生は随分と気苦労されたと思います。
本当にご苦労様でした。
後はご専門のハーブの植え付けとハーブの講習にご専念下さいませ。
ははは~~~!!”
暗くて良く見えませんが、作業を終え 漸くあたりの景色に目がいって
改めて気付かされる防潮堤の高さ
その高さ10m
町役場の方に伺った話だと
『実際に東日本大震災で町にやってきた津波の高さは10mを越えていたので、
また同じような津波が来たら防潮堤を超えると思います。でも津波の威力を弱めることの
「減災」という手段で、逃げる時間を作るのが目的なんです。』
遠くの小高い丘に建つのははたぶん慰霊碑でしょうか。
また次に訪れた時には昇ってみようと思います。
一緒に雪解けの水たまりが残る中で頑張った方々の大切な一枚NPO SOAT代表の藤原さんとハーブ&クラフト代表の宍戸さんを真ん中に囲んでの一枚です。
役場の建設課のみなさんも一緒に
官民一体の作業って稀にみる(稀にも見ない、が正しいかな?)ことで
凄いことですよね。貴重な体験をさせて頂いたみなさんに 本当に感謝いたします。
今日の朝、
みんなで作り上げた花壇の様子が先生より送られて来ました。
レンガの総数925個。。。
ここに植えられる「ハーブのプロジェクト」はこれからもまだまだ続きますが
「レンガを積んだ経験の全くない方々だけで
如何にして 正確で 美しく そして頑丈なレンガの花壇を
たった2日間で作り上げて頂こうか」のおいらのプロジェクト(ははは~~~!!”)は
無事に終了したようです。
みなさんの『事』の呑み込みの速さと 正確さと
なにより笑顔の表情に 明るい未来を感じて来ました。
なにもなければ もしかしたら一生お邪魔することがなかったかもしれなかった
『福島県相馬郡新地町』に 素敵な希望の芽が芽吹いていましたよ!”
山形市の南隣りが、 温泉と 斎藤茂吉 と干し柿で有名な上山市
そんな上山市に越されて来て6年。
ようやく夢であった感謝祭開催を今週末に控えました。
震災で飲み込まれてしまった南相馬市の農園を
ここで再建されて来たガーデン四季さんの
ホントの意味での再出発かなあ〜〜〜
http://blog.niwablo.jp/hyo-gensha/kiji/204834.html
ガーデン四季さんの事っ
ははは〜〜〜!!!”””
実際に戦争下で生き延びた人達の多くは
『二度と戦争はしてはいけない』と言い
そこに携わった祖父を持つ指導者は
声高らかに勇ましく声を荒げる。
原発事故で故郷を追われた人達は再稼動に心痛め
推進している指導者は輸出までするという。
花は咲けども帰れない
生まれた土地に帰れない
遊んだ小川に帰れない
100年経ったら帰れても
そこに誰が待っている
朽ちた墓石 曲がったタンポポ
2012年の今日と同じ4\24日に書いたブログです。